言葉を自分の都合のいいように解釈して使うこととは。

大体において僕らは、言葉を自分の都合のいいように解釈して使う。

たとえば「諸行無常」という言葉があるけれど、これは「おごれる者は久からず」という意味にさらにバイアスをかけて使われることが多い。どんなバイアスかというと、嫉み、だ。

おごれる者は久からず、とはただ単に、どれだけ栄華を誇った人でも、永遠にそれかが続くことはありませんよー、ぐらいの意味だ。ぐらいの意味だ、なんていうと仏教に明るい人からおこられそうだけど、歴史を見ても、永遠に栄華を極め続けている人や人工物はないので、まあそういう経験則から生まれた優れた観法だよね、と僕は思ってる。

おごれる者は久からず、には、おごれる者は久からず、以上の意味はない。よくよく身の回りをみていると、ああおごれる者は久からず、なのだなということが見えてくるというだけのことだ。



ただ、これを歪曲して、大きな成功を収めた人や調子に乗ったように見える人が失敗しその立場から失墜したときに、嫉みや侮蔑を含んで「おごれる者は久からずってよく言ったものだね」という場合がある。

常人の範囲を超えて成功をすると、まるでそのあとに罰が待ち受けているのが当然だ、というように。

もちろん、悪いことをしてのし上がったのなら、その悪いことに対してなんらかの罰が下ることはなんら間違いではない。けれどその罰は、してしまった悪いことに対して与えられたのであって、成功したことに対してあたえられたのではない。


おごれる者は久からず、の裏側には、「おごらざる者も久からず」が隠れているのだ。諸行無常はすべて僕らに平等だ。


おごれる者は久からず、と、ただその意味において使えるような人になりたいなと思う。