自分の心の狭さについて

僕は今東京に住んでいる。
山梨にある実家には隔週くらいの頻度で特急に乗って帰っている。


ところで僕は子どもが好きだ。
少なくとも嫌いではないし、上手に世話ができるかといえばまだ経験がないからわからないけれど、少なくとも混んだ電車にベビーカーと共に乗り込んでくる母親に対して不快感は覚えないし、電車の中で泣いたりよく喋ったりする子どもにもイライラしたことはあまりない。(もっとも、騒ぐ子どもをたしなめない親にはイライラすることもある)


ただ、このあいだ山梨から東京へ戻る特急で、こんなことがあったのだ。

夕方山梨を出発したあずさで、昼過ぎに国立駅でおきた人身事故の影響で、中央線のダイヤはまだ若干乱れていた。当然中央本線も連動してダイヤ乱れがあった。

その日僕はなかなか疲れていたので(前の日にあまり眠れなかったし、昼間は散々甲府市街を歩き回った)、自由席に座れるようにと早めに出発ホームへ着いていた。

思いの外、電車は予定通りに到着し、早く並んでいたこともあって通路側だが席を見つけることができた。あとから来た人のなかには座れずに連結部に立っている人もちらほらいた。

僕の隣は大人しいサラリーマン。他の座席は連休を利用して帰省していたと見える若者たちや、年配の旅行者だった。なかなか落ち着いた客層だった。

通路を挟んだ隣には、50代を過ぎたくらいの夫婦がいた。どちらも短髪で白髪混じり。スポーツ公園に軽い運動をしにいったかえりみたいな、ジャージ姿だった。棚に上げられた荷物は大きく膨れたリュックサック。ご主人はメガネをかけ、奥さんは裸眼のようだった。
二人の座席の間には、同じくジャージを着た男の子がおさまっていた。ほっぺが真っ赤で利発そうな、5歳くらいの男の子だ。

夫婦のことを彼は、お父さん、お母さん、と呼んだ。どうやら親子らしい。いや、もしかしたら、孫かもしれない。本当の両親をパパママと呼び、祖父母を父さん母さんと呼ぶ一家を僕は知っている。でも、冷静に考えて、そういう例は多くないはずだ。普通子どもは両親をパパママ・お父さんお母さんと呼び、祖父母をおじいちゃんおばあちゃんと呼ぶ。


年齢を考えると、彼らを親子と仮定するならば、少し年がいってからの子どもだということだ。それについて良いとか悪いとかは、僕は考えない。もしかしたら何か事情があって、養子にしているのかもしれない。大体世の中の人というのは、僕には想像もつかないような複雑な事情を抱えているものだ。


男の子は盛大に父親に甘えている。ねぇねぇと話しかけ、肩をゆすり、鼻先で手を叩き、その胸へ無理矢理顔を埋めようとする。公の空間でここまで甘えたがる子どももあまり見たことがないので、普段からそういうコミュニケーションを築いているのだなあと、はじめは好意的に受け止めていた。


甲府を出発してしばらくは、本を読んでいたが、山梨市を超えたあたりで眠くなってきた。これからは山間部に入り携帯の電波もあまり入らない。大方僕はいつもこの辺りから寝始める。その日も疲れていたし新宿まで眠ろうと本を閉じた。
客席のほとんどの人も眠っていたように見えた。


すると、どうにも隣の親子の子どもの声が気になる。とても甲高くよく響く声だったのもある。そしてそれ以上に、声を出すことに遠慮をしていない、のびのびとした声だったということが大きい。突然に、思うままに思うことを喋る。両親をいじってその反応に笑う。甘えたければ、ねぇーと口に出す。構って欲しいからなのか急に笑い出す。かと思えばぐずりだす。父親を叩く。その仕返しに父親が男の子の腕や肩をパタパタパターとはたく。それに笑い転げる男の子。母親の足も叩く。母親は男の子の髪をぐじゃぐしゃーっと両手で乱す。また笑い声をあげる男の子。

ずっとそんな感じだった。僕の右耳には(彼らは通路を挟んで僕の右側にいた)断続的にその男の子のどこまでもオープンマインドで朗らかな声が飛び込んできた。
僕は、彼の声に苛立ちを覚えはじめた。


イライラしたのだ。子どもの声に。
静かな車内に赤ん坊の泣き声ならわかる。気にはなるだろうが我慢できる。親は周りに気遣いをして大変だろうなと考えることもできる。
でも、彼は5歳くらいだ。もしかしたら小学校低学年ぐらいかもしれない。赤ん坊ではない。社会的秩序みたいなものを、なんとなく理解しはじめてもいい頃だ。だからといって、声も出させず押さえつけろと言いたいわけじゃない。でも、それくらいの年ならば、「ここは公共の場だから」と親が言い含める努力をしたっていい。

けれど、彼らの教育方針は違うらしかった。彼らの家庭のルールはそうじゃないようだ。いつも朗らかに。明るく。ざっくばらんに。甘えたければ甘えさせる。

彼らは僕に、森で自給自足の生活を送るエコロジーな家族のことを連想させた。父親はあけっぴろげで、母親はニコニコしていて、子供たちはどこまでも元気。男女関係なく兄弟揃って風呂に入り、夕飯は裏の畑から野菜を摘んできて料理する。子どもたちには鶏の世話という仕事が割り振られ、父親は週に何度か町まで工芸品や卵、肉、山菜を売りに行く。


どちらかというと、僕はそんなエコロジーな家族が苦手だ。そういう一家のことがテレビで流れたりすると、割とうんざりとする。何がいけないわけでもないし、その類いの生き方を否定したいわけでもない。ただ、苦手なのだ。そういう営みをみていると、うまく笑えなくなってくる。息もリラックスして吸えない。自分の心の狭さを嫌というほど自覚させられる。


特急電車の隣の一家には、そんな家族の雰囲気があった。そう気付いた時、イライラの原因がわかった。



僕は生来、子どもは嫌いじゃない。
むしろ好きな方だと思っている。親戚の子どもの相手をするのは苦じゃないし、どちらかといえば楽しめる方だ。
にもかかわらず、どんな子どもでも好きか、と聞かれたらそうじゃない。
少なくとも、エコロジーな家族のもとて育てられ、90分間の密室で多くの他人たちと共に過ごすことを強いられるような環境でも、森で過ごすようにあけすけに自らの欲求を表現するような子どもは苦手だ。そして、そんな子どもを育てるその家族が嫌いだ。


僕は思ったよりも、心が狭いらしい。


新宿に着いた時にはどっと疲れていた。